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[137] - 2001/09/09 (17:30)

「KANGI SEKAI interview」
l 特別号 l 歓喜世界 革新の法父・伊藤真乗の目と手 p99

押尾章治 SHOJI OSHIO
建築家。設計に携わった応現院の「ひかりのギャラリー」と「対話のギャラリー」が、
”Faith & Form/IFRAA International Awards”において”Liturgical/Interior Design Awards”を受賞。

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「礼拝」と「鑑賞」

---「伊藤真乗の目と手」展の会場デザインに当たり、どのようなことを意識されましたか。

押尾 仏像に「祈る」ことと、美術作品を「観る」ことの違いに着目し、展示空間の構築を模索してきました。仏像は本来、礼拝のためにのみ作られるもので、鑑賞用の仏像はないはずです。仏像を前に「礼拝」すること、それは、より大きな存在や力を信頼し、自己を委ねていくことではないでしょうか。そして、目の前の仏像を通して、日常生活とその延長線上にある世界とが繋がれ、自らの在り方を確認するのだと思います。

---鑑賞と通じる面もありそうですね。

押尾 仕組みは同じだと思います。作品が持つ豊かな世界を想像することこそが「鑑賞」ともいえます。そして、その作品がもつ大きな世界を積極的に受け入れることから、世界が更に広がっていくのではないか。このように整理して考えてみると、どちらもそれほど変わりがないように思えてきました。しかし、空間のあり方については、「礼拝」と「鑑賞」では大きな違いがあることが見えてきました。

---具体的にどのような違いがあるのでしょうか。

押尾 礼拝はその対象物(仏像)と礼拝空間(寺院や周辺環境)が一体となって成立するものだと思うのです。お参りを決めた時から、すでに礼拝は始まっています。そして寺院に向かい、仏像に出会うための様々なプロセスを経て、精神性が高まっていくのだと思います。
一方、展覧会での仏像は単独で展示されます。しかし、それでは「礼拝」の意味が薄れてしまうのです。何とかして多様な空間性を、現代的なギャラリースペースの中に再現したいと考えました。しかも、それが伊藤教主の作品性を引き出すことにつながるということを、国内展を重ねるうちに発見したのです。

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ニューヨークに現れた伽藍

----その発見をニューヨーク展で表されたのですね。

押尾 そうなんです。まず、マンハッタンの中にどうやって礼拝空間を作るかを考えました。人工的な会場の中に、寺院周辺の空間性を再現するために、木立や参道をモチーフにした、細い格子による空間構成を思いつきました。その結果、展示会場は8 00本に及ぶアルミの竪格子で満たされることになりました。各展示コーナーは大きくうねりながら連続する竪格子のスクリーンでやわらかく仕切られます。スクリーンは二重になっていて、その間に並ぶ仏像は下からの光で浮かんでいるようにしました。竪格子の間隔はあえてランダムにしました。こうすることで、鑑賞者の移動に応じて目に映る格子の重なり方が不規則になって空間に様々な疎密が現れます。これにより、木立の様な自然環境のもつ不規則さを表現しようとしたのです。その結果、全体に霧が立ち込めたような空間のなかで仏様が光を放ち、格子の間から見え隠れするような空間ができあがりました。

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舞い降りたみ仏

---「見え隠れ」していた点が、一般の展覧会には見られない特色だったのではないでしょうか。

押尾 そうなんです。もうひとつ表現として意図したのは、鑑賞者が一対一で仏像に出会いながらも、常に会場にある他の仏の存在も意識できるようにすることでした。これは一般的な美術館などでは実現しにくいことです。格子のスクリーンは大涅槃像を中心にして、ゆるやかに各コーナーを分けています。展示スペースのどこからでも、白い疎密のある霧のような格子の向こうに、輝く大涅槃像や他の仏像が見え隠れします。つまり、格子の列によってつくられた展示経路に沿って移動し、仏像作品の一体一体ときちっと向き合いながらも、中心に安置された大涅槃像や他の仏像の存在も同時に意識されるのです。そのような構成自体が、仏教的な空間を表していると考えました。
特に大涅槃像の展示位置にはこだわりました。様々な作品との出会いを経て、大涅槃像に出会うようにしたのです。完成したときには「仏様が舞いおりた!」と思いました。単にお作品を会場に運び込んだのではなくて、仏様がここに来てくださったと直感的に感じたのです。そして、その仏様と出会って「自分がここにいるんだ」という実感が湧いてきました。印象的な体験でした。
一方、新たな問題もありました。ニューヨーク展で作ったこのような「しつらえ」が、構造の違う他の会場で使えるのか、ということです。ニューヨークと同じような空間が作り出せるかが悩みでした。しかし、実際には、どの会場にも驚くほどピッタリとはまりました。立面図はたくさんできるのですが、どう見えるかはわかりません。原寸の格子をたくさん事務所に並べて実験をし、ランダム感を出していったのです。間隔の違いだけでまったく見え方が変わるのですが、絶妙なリズムが出せたと思います。

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伊藤真乗の彫刻

---教主の作品に対してどのように感じましたか。

押尾 こうした展示会場の空間表現にいたるまでは、考え方も逡巡し続けました。そんな時、伊藤教主の仏像は私に大きな示唆を与えてくれました。師の仏像は清爽な印象に満ちています。そして、周辺に働きかける空気感をもっている。それは像が超越的な視点からのみではなく、より温かな目線で作られているからではないでしょうか。「信仰は特別なものではなく、身近な生活を応援するものだ」という伊藤教主の宗教観が表されているように思いました。彫刻としての造形表現にも感心させられました。「聖観音像」のわずかに前後した足に見られるように、いくつかの像は微妙に正面性をずらしてあります。礼拝対象仏としての正面性を保ちながらも、ほんの少し動きを出すことで、周りの空気を含んで見えるのです。そうすることで周辺の空間との親和性が生まれ、より聖性が高まります。
「出山の釈迦像」などは絶妙です。頭、肩、合掌した腕、前後になびく衣、足、台座など、全てが微妙にずらされています。どこを基準に見るかで、像のアウトラインがどんどん変化していきます。向きによってかなり形が異なって見える衣や、見え隠れする耳のラインなどに気持ちを奪われ、結局、像の周りをいつまでもぐるぐる廻ってしまうのです。単体の仏像で、ここまで周辺との親和性が高いものを私は知りません。かなりの力量がいると思います。そこをヒントに、海外展の空間構成は始まっているのです。私にしてみれば、最終的に出来上がった展示空間は、伊藤教主によってつくられたような気がしてなりません。伊藤真乗が残した作品という「かたち」が波紋のように世界へと広がり、また、未来の人との出会いも作り出したのだと思います。__

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