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[158] - 2013/08/11 (21:30)

「環境をつくること」
KJ 2013.5月号 巻頭原稿
建築と環境

「環境」とは、難しい言葉です。その言葉の意味する範囲の大きさが、言葉を発する人の意識の持ち方次第でさまざまに変化するからです。環境は、ときに片隅の小さな場所となったり、大きな社会環境になったりします。特定の誰かが創作したものから、長い歴史の中で大勢の人や自然が介在して培われたものまであります。超越的な神が創ったとしか説明できないような人為を超えたものすらあるでしょう。ただ言えることは、どんなに人為的で小さな場所でも、その場所の歴史と記憶があり、時に神話的とすら言える磁場があるということです。
建築は、つねに環境の中に形作られます。当然のことですが、建築はつねにすでにある環境の中に短期的に構築されるものです。長い時間をかけて作り上げられた既存の環境の中に在ることに敬意の念を抱きつつ、その中に短期間で建築は作り上げられなくてはならない。短期間で作られるものは、往々にして環境に対して異物となることもありますが、そうではなくて逆に、環境の中に建築という小さな領域を作りこむことで、さらに良好な環境になってほしいと思っています。良好な環境を担うための建築には、そこを訪れるさらに小さな身体と環境の間をつなぐ媒介の役割が担わされます。そのためには、身体の感覚を押し拡げる体験を作り出すことが必要です。

日々の設計から
建築を設計する前に敷地調査をします。そこにはまだ何も建っていませんから、建物が建った時にその内側からどんな環境が享受できるかがよくわかりません。街並みや周辺地域といった水平方向の広がりは、周りを歩き回ることでも分かります。しかし高さ方向に変化する眺めは、なかなか予測することが難しい。人間は高さ方向に上下する目線を持ってない生き物だったことを思い知らされます。
窓からの眺めでというと、とかく富士山などのわかりやすい自然景観だけを対象としがちです。しかし私は、近隣の屋根の重なりや周辺の人や車の流れ、それこそ広告看板や電柱などに至るまで、目に入るもの全てを等価な環境として扱い、それらを再編集することによって良好な環境を作り上げていきたいのです。
グーグルアースの出現などによって、上空からの情報が随分手に入りやすいようになりました。それでも敷地内での、人間の微細な高さの移動も含めた動きによる景色の変化までは、まだまだフォローできるものではありません。世界はそれほど簡単に記述しきれるものではないですね。結局、人間はアイレベルより高いものは、下から仰ぎ見ることしか出来ないのでしょう。人間は鳥にはなれないのだと、いつも思います。直接上から下まで自由に見てみたい願望がありますね。

俯角と仰角
飛行機に乗ると、随分感覚が変わります。いまだに気分が高鳴ります。風景を自分の目線より遥か下に捉えられる機会は少ないですから。高度が上がって俯角が大きくなると、眼下の眺めに空が入らなくなります。眺める対象と風景には明瞭な境界がなくなって、水平方向への地表の拡がりのみが強く見えてきます。まるで眼下の景色の中に自分の身体が拡がっていくような感じになるのです。世界が連綿と続いているのも実感として感じられます。ちょうど映画で言う長回しのロングショットを、ズームアップ/バック付きで楽しむ感覚に近いでしょうか。
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反対にアイレベルより高いものを仰ぎ見た時には、視界に空が入ってきます。眺める対象物が空との間に明瞭な境界を持ってきます。対象物は環境から独立した存在として強く認識されることになります。それは、仰角が大きくなるほど強調されます。極端な角度では圧迫感すら生まれますよね。明確に背景の環境から浮き立っている対象物を眺めると、自らの存在と対峙しているような感覚さえしてきます。逆に夜空に浮かぶ月が、自分という存在を映し出す鏡のように感じたりすることもありますよね。環境に対しては、向かい合う角度の取り方ひとつでも、そこに現れる世界は変わってくることがあります。
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感覚と言語とかたち
そういう感覚を捉えたら、常に設計へ反映させたいと考えています。やはりそこにある感覚こそが、紛れもなくその人個人の大切なものですから。そして感覚を抽象して共有可能な言語に置き換えるプロセスにもとても興味があります。やはりそれ自体が、かたちに繋がり、建築につながるプロセスの第一歩だと思いますから。常に社会の中でも、まず感覚を言語に置き換えることで生まれる価値が享受されてきたのだと思います。
抽象化をおそれずに言えば、高度成長期以降の社会では人間を単なる質量や熱量を持った抽象的で物理的な存在に置き換えて扱おうとしていたようにも思えます。人間の生身な部分に付き合わないことで、効率よく社会が発展して来られたのでしょう。もちろんそれで、実際に豊かさを享受してきたわけです。でもこのところ、そうした抽象性に頼っていた社会も大きく変わってきたと思います。経済状況や政治・社会的な枠組みの変化などの影響もあるとは思いますが、やはり、東日本大震災の影響は決定的なのだと思います。
まさに言語を絶する被災地の状況を目の当たりにし、今までの関係性の作り方の限界が露呈したのだと思います。物理的に困窮している住処や物だけを送れば済むということではないことがようやく理解できた。これからは、今までの言語を駆使して伝えていた範囲以外のコミュニケーションも重要になってくるはず。たとえば黙って人の話に耳を傾けるとか、寄り添って一緒に働くとか暮らすとか、そういう共同型、共振型の関係性が重要になってくると思います。お互いの感覚を寄せ合うことは止めないまま、どこまでもそのズレを許容するようなコミュニケーションの在り方が大切になってくる。
それは、言語化を止めようということではなく、むしろどこまでも言語化を尽くした先に、さらに零れ落ちる言葉にならない感覚というのも大切に拾い上げようということだと思います。その辺りが少しずつ見直されてきたように思う。そうした感覚こそかけがえのないものだと思います。

環境をつくること
言葉のさらに先にある感覚を拡げ、その先の環境へとつなげられる場所を作りたい。特定の環境にある場所に対して、その中に、小さな建築環境をつくり、そこを媒介に周辺外部との向き合い方を整理する。そして仰ぎ見る/俯瞰する、上る/下る、内部/外部、暖かい/寒い、明るい/暗い等のいろいろな身体感覚を伴った多様な経験として、外部環境との動的で複雑な相関関係を作りこむ。様々な角度や捉え方から周辺環境との向き合い方が実感されていくことになる。そうした体験を通して、この世界とひと続きになった感覚を得ることで、地域や社会の領域に出て行けるのだと思います。そういう繋がりが、それまでに培われた既存環境がまとっていた神話的なストーリーに繋がっていければと面白いと考えています。たくさんの人が関わってきた神話を、新たな建築を起点にもっともっと魅力的に書き換えてみたいと常に野望を持っています。



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