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[180] - 2014/05/16 (15:22)

DETAIL JAPAN 2008年7月号別冊「わたしの10本」
映画の発見表紙
DETAIL JAPAN 2008年7月号別冊「わたしの10本」
押尾 章治

「暗殺の森」1970ベルナルド・ベルトルッチ
「1900年」1976ベルナルド・ベルトルッチ
「シェルタリング・スカイ」1990ベルナルド・ベルトルッチ
「ラストエンペラー」1987ベルナルド・ベルトルッチ
「暗殺のオペラ」1970ベルナルド・ベルトルッチ
「ラストタンゴ・イン・パリ」1972ベルナルド・ベルトルッチ
「フラメンコ」1995カルロス・サウラ
「ZOO」1985ピーター・グリーナウェイ
「数に溺れて」1988ピーター・グリーナウェイ
「去年マリエンバードで」1961アラン・レネ

映画のリストを作れといわれれば、私の場合、ベルナルド・ベルトルッチの作品を中心に上げさせてもらうことになる。中でも特に、キャメラの大御所、ヴィットリオ・ストラーロが撮影に関わった作品に興味がある。この二人の組合せが作り出した傑作映像の数々は、自分にとって忘れられないものとなっているものが多い。
最初のきっかけは「暗殺の森」という作品だった。学生の頃友人と二人で、当時のシネ・ヴィヴァン六本木に急いで飛び込んだことに始まる。しかしそれは、他の映画と勘違いして入ったのであった。オープニングの時は訳も分からなかったが、とりあえず真っ赤なネオンと暗闇との明滅で語られる、センスの良いタイトルバックに感心するところから始まった。
当然しばらくして、予定とは違う映画だと気付いたのだが、すでに目の前に展開し始めた映像の美しさに、鳥肌が立つほど感動して席から立てなくなってしまったのである。全てのカットが緻密にデザインされた安定した構図と色彩とで構成され、息もつけないほどに感じたのを憶えている。そしてそれらが全編に渡り、繊細な光と影によって記述され、緊張感のある静謐な空気を孕んでいた。当時は心底そう思った。特に後半に現れる、大勢の人間が画面いっぱいにぐるぐる旋回しながら画面の外に消えていくダンスホールのシーンや、クライマックスの、雪山の林立する木立ちから、朝靄と淡い日差しを背景に何人もの暗殺者が飛び出すシーンなどでは、自分も知らなかった新たな感覚が呼び起こされたのだった。
そこには、映画が成り立つ仕組みそのものが示されていると感じたほどである。元々ひと続きであった環境を、その作家なりの把握の仕方で様々な構図に記述し直し、静止画としてのひとコマづつを完成させる。その上であらためて静止画面と、その外に途方もなく広がっているはずの目に見えていない部分とを、カメラによる目線で連続的、立体的に繋げ直すことを繰り返す。その接続の繰り返しによって、目の前の現実とはまた別の時間軸を伴った別の空間が発生することになる。ストラーロのカメラとベルトルッチの編集は、映画でしか発生し得ない時間と空間を現出させる。
画面に釘づけになりながらも私は、これは建築に似ている、と思いはじめる。建築において、ある場所を「空間」として把握する瞬間によく似ているのだ。今その時間にその場所から見える眺めと、少し前に反対側から眺めていた時間的には少し前の記憶を、併せて同時間的に捉え直すことで、そこに「空間」が表れるのである。そして作り手側としては、その表れ方を操作することが問題なのだと。このあたりについて、ベルトルッチ+ストラーロの映像は、今でも自分の設計作業には大いに役立っている。
他に今回リストアップした中には、ストラーロ同様に、非常に凝ったすばらしい画面を作るサッシャ・ヴィエルニーがカメラを撮ったものも選んでみた。アラン・レネの「去年マリエンバードで」や「ミュリエル」などを撮ったことで知られる。その後、ピーター・グリーナウェイと組むようになって、彼の数々のコンセプチュアルで端正な映像美の完成度を一緒に高めた人である。(おしおしょうじ)



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